春過ぎて夏来るらし 白妙の衣干したり 天の香具山

父の祖先は真田流忍者、母の祖先は伊賀流藤林党忍者。そんな両親をもつ早紗のブログです。 


武田忍者・熊若


熊若


熊若(くまわか)  ・・・ 武田忍者



甲斐(山梨県)の武田信玄は自分専用の忍者・三ツ者を抱え情報を得ていたが、
その他にも80人近い忍者を雇い、そのうちの優秀な忍者64人を3組にわけ、
武田二十四将といわれた甘利備前守虎泰、飯富兵部少輔虎昌、
板垣駿河守信方に20人ずつを預け、情報収集にあたらせた。


武田二十四将









武田二十四将











甘利備前守虎泰





甘利備前守虎泰









飯富兵部少輔虎昌





飯富兵部少輔虎昌









板垣駿河守信方





板垣駿河守信方








飯富虎昌に仕えた忍者に、熊若という足の速い若者がいた。


永禄四年(1561年)、
第4次川中島の戦いがあった年の4月、飯富兵部少輔虎昌が武田信玄に従い、
上杉謙信方の城、信濃割ヶ岳城(長野県信濃町)を攻撃した時のことだ。
軍議により攻撃が明日の早朝で、しかも虎昌が攻撃の二陣をつとめる大事な戦いの時、
虎昌は肝心な部隊の隊旗を甲府(山梨県甲府市)に忘れてきたことに気付いた。
虎昌が困り果てていると、熊若が取りに行って来ると申し出た。


割ヶ岳から甲府まで片道32里、往復だと64里(約256キロメートル)の道程だ。
忍者は一夜で、30里(約120キロメートル)走ったという。
ちなみに男の旅人は、1日に約9里(約36キロメートル)は歩いた。
女子供でも、7、8里(約28〜32キロメートル)は歩きとおした。
往復256キロメートルは並の者では不可能だ。
しかし、熊若は、この難仕事を簡単にやってのけた。
そればかりか、手形を持たなかったため城には入れず、
壁を伝い塀を越えて城内に入り飯富の隊旗を持ち帰ったという。


この速足が疑われたこともあった。
熊若が19歳の時、今川氏真から借りていた、
武田信玄の『古今和歌集』が盗まれる事件があり、疑いが熊若にかかった。
だが、熊若は箕輪城(群馬県高崎市)の長野業政(なりまさ)に仕える
犯人の風魔忍者を捕まえ、無実を証明したという。



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タグ : 秘密結社 



忍法・浮足


下柘植木猿  下柘植小猿


下柘植木猿・小猿(しもつげのきざる・こざる) ・・・ 伊賀流下忍



忍術の秘伝書『万川集海(ばんせんしゅうかい)』に載る、11人の忍び上手のうちの2人。
伊勢阿山群下柘植郡(三重県伊賀市下柘植)に住んでいた。
忍術使いの格好からすると下忍というが、忍術の技術では、
実力的に中忍(中忍とは何人かの下忍を率いる小頭)より
下忍のほうが上手であった忍者もいたという。


木猿は木申とも書く。
また、木猿は太郎、小猿は八郎と称した。
小猿は子猿ともいった。


この2人、親子なのか兄弟なのか、同郷に住む他人なのかはわからない。
おそらく同郷の者で忍術がうまく、体の大きい方を木猿と呼び、
体の小さい方を小猿と呼んだのであろう。


猿という名前の通り身が軽く、葉の茂る樹木に登り身を隠す術を得意とし、
葉を全く揺るがさずに、枝から枝へ移動する術をつかっていたという。
足掛かりのない大木に登る場合、忍び刀を大木に立てかけ、
四角な鍔(つば)に足の指をかけて飛び上がり、
枝に取り付いたところで下げ緒を引き上げ刀を取り戻すのが忍者の常である。


『万川集海』の「利便地十二ヶ条」で小猿は伊勢の田(丹)倉城(三重県)に忍び込んだ時、
城への水通しの桶の中を這って城内に潜入し、放火して落城させたという。
普段、小猿は 猿楽師(猿回し)」として活動しており、その猿を他の家に進入させて、
家の木戸を中から開けさせたりしていたという。


同書の「見敵術四ヶ条」で、木猿は屋敷の中で敵将の居場所がわからず、
犬がうるさく吠える真似をして敵将を怒らせ、野良犬を追い払おうとする敵将の大声で
居場所を確かめ、その部屋に忍び込んで敵将を討ち取ったという。


下柘植 子猿・木猿は猿飛佐助のモデルで、
『水戸黄門』に出ていた「柘植の飛猿」もそうだという。





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